※前回の話より、ずっと前の一幕です。陽子さんは若く、二人はまだ付き合っていません。
なので、尚隆氏を先輩呼びしています。
「楽しい夜釣り」
秋の空が高いのは昼だけでない。澄みきった夜空に満月が冴えわたる様の、なんと清々しいことか。
耳の奥を心地よく転がるような虫の音も、少し切なくてなんだか愛しい。そんな秋の夜の風情を愛でながらも、陽子は紅唇を尖らせた。
「……静かですね」
「おう」
頭の上から返事が聞こえる。
陽子が居心地悪く身じろぎすれば、釣竿を掴んでいた大きな手が片方離れ、いっそう深く陽子の身を温かな懐の中へ抱き込んだ。
「……」
何なんだ。何なのだ、この状況は?!
陽子はジタバタ暴れ出したくなるのをこらえて嘆息する。
そう、彼女は今、胡坐をかいた隣国の名君の膝に乗せられ、大きな上着の中にしまいこまれているのだ。挙句に、二人羽織のごとく二人で一本の釣竿を持っている。
……吹きつけた夜風の冷たさに、思わず「寒い」と零したのがいけなかったか?
背中を預けてもびくともしない胸板や腰を抱く腕の逞しさ、お尻の下の脚の硬さとか、ほんわりと陽子を包む温もりとか……現在のこの体勢を意識すればするほど、陽子はいたたまれなくなってしまう。正直跳び上がって逃げ出したい。
が。夜釣りに誘われて、喜んで付いて行くと言ったのは陽子自身だ。
目的の大物でなくとも、せめて何か釣れるまでは付き合わねば……。
そうは思うものの、暗い湖面は鏡のように凪いでおり、魚影どころか波ひとつ乱れない。釣り糸も浮きも、最初からピクリとも動かなかった。
「……まったく釣れませんね」
「ああ」
頭の天辺に熱い息がかかる。陽子は反射的に肩を竦める。
彼は至極のんびりと静けさを堪能しているというのに、私はどうしてこんなに落ち着けないのだろう。陽子のヘソが次第に曲がってきた。
「なんとか言ってくださいよ」
「なんとか」
「言うと思いました」
陽子は斜めに顎を上げ、真上に在る呑気な顔を睨みつけた。
「もう!先輩!本当に金色の大ナマズなんか居るんですか?満月の夜だけ釣れる、生き胆が超絶美味の巨大魚なんてっ!」
「いる……はずだがなあ」
尚隆は陽子の抗議などどこ吹く風で首を捻った。
「声をあげるとこちらを警戒して、ますます出てこなくなるぞ?」
ぐっ。陽子は言葉に詰まる。でももはや我慢も限界だ。
「暇だし、冷えてきましたし、もう帰りましょうよ」
「なんだ。陽子は帰りたいのか」
心外だとばかりに、尚隆は陽子のふくれっ面を覗き込む。
「俺は十分楽しいぞ」
「何がたのっ」
尚隆がいきなり竿を取り上げ、雑に置いた。それから両手で陽子の腰を持って正面に向け、ぬいぐるみのように後ろから抱き締めて紅の頭に顎を乗せる。
「重い!顎が刺さります!もぉ~……何が楽しいんですか!」
ついに陽子はジタバタ暴れだした。
すると尚隆は顎は外してくれたが、代わりに左の耳朶に口を寄せた。
「つれない奴だなあ。『月が綺麗だから』陽子を誘ったのに」
吐息交じりの囁きに、陽子はギクリとして固まった。ギ、ギ、ギ、と軋りそうな動きで上方を振り返る。
「……先輩は、明治の文豪なんか知りませんよね?」
「猫好きの奴なら知っているぞ。ブンコボン?とやらを六太が読んでいた。大笑いしたかと思ったら、鼻水垂らして泣きだしたので吃驚したな」
「えっ?もしかしてそれ、『吾輩は猫である』ですか……泣けますかね、あの話」
「なんでも、あいつにとっては結末が無慈悲極まりないらしい。俺がそこは笑いとばしてやるところじゃないかと言ったら、俺なんかキライだと叫んで飛び出していった」
「ああ……そっか、麒麟にとっては辛い結末かも」
と、ここで尚隆は茫洋とした表情を捨てニヤリと笑う。
「というわけで、一連の逸話も知っている」
強い瞳で見据えられ、陽子のこめかみに冷や汗が浮かぶ。
「な」
「せっかくの二人きりだから—―大ナマズも遠慮して出てこないとみえる」
「な、なにを言っているんですか……っ!」
陽子の頭に血が上った。
からかっているんだ。絶対。延王は陽子をからかって遊んでいるに違いない!
怒鳴り返したいのに、口の中がカラカラに乾いて声が出ない。
仕方なく口を開閉する陽子を面白そうに眺め、尚隆が喉を鳴らして笑った。
「陽子。顔が髪より赤いぞ」(ククク)
誰のせいですか!!!
ああ言い返したい。なのに声が出ない。
ふと精悍な面立ちが寄って来たので、陽子は慌ててそっぽを向いた。
「『月が綺麗』の件を聞いたときはなんて気障で迂遠な奴だと呆れたが、陽子がそんな顔をするのなら悪くないな」
だから耳元でしゃべるのはやめて!!
陽子は唾を呑み、必死でわめき返す。
「わ、私は『死んでもいいわ』なんて言いませんからねっ!」
「当たり前だ。斃れてもらっては困る」
「そこだけ素で返事しないでください!……ちょ、放して!!」
真っ暗な水底から、いくつかの泡が浮き上がる。
水面に映った月が揺れて乱れ、ぼんやりとお月さま色に光る魚影が現れた。
それは長い髭を垂らす面をあげ、岸辺の騒ぎを聞きつけて……すいすいと沖へ逃げて行った。
<残念!釣果はボウズです・了>